安倍川もちについて

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安倍川もちの由来

静岡が東海道五十三次

名物に美味いものあり安倍川もち

静岡が東海道五十三次の府中宿と呼ばれた時代から、美味いものとして名物番付の上位に据えられ、今日に至るまで静岡を代表する名物として広く愛されてきた「安倍川もち」。その由来については幾つもの言い伝えがありますが、400年ほど昔、慶長のころまでさかのぼることができます。

徳川家康命名の「安倍川もち」

 徳川家康が駿府城を居城としていた時代。安倍川上流に位置する井川の笹山金山や梅ヶ島の日影沢金山などを御用金山とし、金の採掘を盛んに行っていました。
 あるとき検分に出向いた家康に、ある男が餅をつき「黄粉」をまぶして献上しました。あまりに美味しかったので男に製法を尋ねると「この餅は、金山から産出する金の粉が安倍川へ流れるのをすくい上げて、餅にまぶしてつくるので『金粉餅(きんこもち)』と申します」と即答しました。家康はこの男の機知をほめて褒美を与え、改めてこの餅を「安倍川もち」と命名したということです。
 また、この「金粉餅」は今川・武田のころ(約420年前)から、梅ヶ島金山で金が豊富に採れることを祈って、神前に供えられたものだとも伝えられています。

「安倍川もち」の元祖「五郎右衛門餅」

 天正10年(1582)に駿府に生まれ、唐(から)・天竺(てんじく)・阿蘭陀(おらんだ)をはじめ諸国を渡り歩いた渡邊幸庵という人物がいます。その幸庵が物語ったものを記した『渡邊幸庵対話記』に、丸子(静岡市)に伝わる「五郎右衛門餅」の話が載っています。
 五郎右衛門餅は、東新田(静岡市)の米でつくった風味のよい餅で、この餅を好んで毎日のように江戸まで運ばせた姫君の逸話もあるほど。公家衆も東海道を下る際には必ず立ち寄ってこの餅を食べ、「鄙にも稀な」(田舎には珍しい)美味しい餅だと誉め称えたといいます。
 この「五郎右衛門餅」こそが「安倍川もち」の元祖だと考えられます。徳川家康に「金粉餅」を献上した話の主人公は、代々「五郎右衛門」を襲名した弥勒(静岡市)の宮崎家の祖先で、近世まで「亀屋」と呼んだ安倍川もち屋でした。参勤交代の諸侯が、家康公の命名ということで安倍川を通る際には必ず「亀屋」に駕籠を寄せて「安倍川もち」を食べたといいます。

八代将軍徳川吉宗も
「安倍川もち」を賞味

 根岸鎮衛という旗本が、天明から文化にかけて(1781〜1811ごろ)書き継いだ『耳嚢(みみぶくろ)』という随筆集の巻の三に「阿部川餅の事」という項目があります。
 駿州府中阿部川の端に阿部川餅とて名物の餅あり。都鄙の知れる事ながら変わりたる餅にもあらず。有徳院様には度々御往来も遊ばし御上りにも成て委細(いさゐ)御存知故「阿部川餅やうの餅は通途になし」との上意なりしに(後略) (岩波文庫『耳嚢』)
 この文中の有徳院様とは紀州公時代の八代将軍徳川吉宗のこと。参勤交代で東海道を通る際、家康公が「阿部(安倍)川もち」の名付親であることをご承知で「阿部川もちは街道一の餅だ」と賞味されたと書かれています。また、この項では御賄頭(まかないかしら)・古郡孫太夫、駿河代官・文右衛門が餅米十俵で餅をつき献上したところ、ことのほか喜ばれ、古郡孫太夫は年々昇進して西丸御留守居役にまでなったと記されています。

多くの旅人を魅了した名物「安倍川もち」

 「安倍川もち」は、近世以来、多くの紀行文や随筆、絵などにも描かれ、広く紹介されてきました。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも 「爰は名にあうあべ餅の名物にて、両側の茶店はいづれも綺麗に花やかなり……」
書かれています。古い川柳に「安倍川で馬は黄粉をあびてゆき」とあるように、本来は黄粉だけのものでしたが、後には餡のものもつくられるようになりました。
 安倍川もちの価値を一層高めたのは、徳川時代珍重した白砂糖を使ったことです。値段を聞いてびっくりした伊勢参りの男に「のろまめ、砂糖の高いのを知らねえか、白砂糖をつかう餅が、道中のどこにある」と江戸っ子が罵った言葉が『役者見立五十三次』という評判記にあります。安倍川畔の餅は、ひとつの盆に黄粉と餡の二種類を並べて盛った上に砂糖をかけて売られていました。昔は安倍川名産の安倍川紙子にちなんで「かみこ餅」とも呼ばれ、五個で五文の「五文採(ごもんどり)餅」でしたが、のちに一個五文で売られました。
 明治維新の際には、西郷隆盛が有栖川大総督宮を安倍川まで出迎へ、茶店で休憩しながら餅を食べていた姿も見かけられています。また昔、駿府の人が西へ旅立つときには親戚知人が弥勒まで見送り、亀屋や葉婦屋などの茶店で別れの酒宴や出迎へをしたもので、酒好きには餅をわさび醤油で食べる楽しみもありました。
 かつて東海道を往来した旅人を魅了した「安倍川もち」は、現在ではJR静岡駅で東海道名物として販売され、旅を楽しむ多くの人に変わらず親しまれています。

やまだいちのこだわり

静岡が東海道五十三次

静岡で買える伝統の銘菓「安倍川もち」

江戸時代から東海道名物として広く知られた「安倍川もち」を、戦後はじめて復活させたのが【やまだいち】でした。昭和25年3月17日の発売以来、やまだいちの「安倍川もち」は、静岡のお土産の代名詞として多くの人に愛されてきました。
「全国のどこででも買えるものではなく、この土地でこそ買えるもの」。ここに地元の名物を大切に守ってきた自信とこだわりがあります。安倍川もちが本編中に登場する『東海道中膝栗毛』の主人公のひとり「喜多八」が描かれた包装紙がやまだいちの安倍川もちの目印です。

お土産に最適なパッケージ

❶ お土産に最適なパッケージ

創業者が考案した食べきりサイズの個包装は、遠慮がちな日本人が気兼ねなく食べられると当時好評を博しました。持ち帰りやすいよう工夫を重ね、どの個数でも化粧箱に収るよう設計されています。やまだいちでは、お客様の要望に沿ったお土産を作る努力を続けています。

こしのある柔らかいおもち

❷ こしのある柔らかいおもち

やまだいちが追求するのは、もちらしさのある、こしのあるおもち。契約栽培で仕入れる佐賀産の餅米を使い、胴突きしたものに、砂糖を加えて柔らかく仕上げます。また、毎朝仕込む手づくりの安倍川もちは、より生のもちに近い感触を楽しめるよう仕込み方を工夫しています。

風味豊かな黄粉と餡

❸ 風味豊かな黄粉と餡

安倍川もちの引き立て役となる「黄粉」と「餡」。国産大豆を使い、豆の煎り方や挽き方を工夫して仕上げた黄粉は、きめ細やかで香りよく、淡い色合いが特徴。また、餡もちには、北海道産の小豆を使った自家製の上質なこし餡を使用し、美しい紫色に仕上げています。

やまだいちの歴史

創業者・山田一郎
賑わう売店
安倍川もちお買上げの栄を賜る
山田一郎と自社工場
発売当時の安倍川もち
桐箱入り手作り特製安倍川もち

〈「安倍川もち」復活に奔走した山田一郎 〉

 江戸時代からの伝統を誇る「安倍川もち」も物資の入手が困難になった戦中戦後において、すっかり途絶えてしまいました。戦後、静岡名物「安倍川もち」の一日も早い復活を目指して動き出したのが、「やまだいち」の創業者・山田一郎です。そこには単に名物の復活というだけでなく「静岡復興の証として」という大きな意味が込められていました。静岡駅での発売に成功した後も、パッケージを工夫して、一人前ずつ小分けにした商品を売り出すなど、お土産としてよりお客様が持ち帰りやすいよう工夫を重ね、全国に静岡名物「安倍川もち」を広めるのに大きな役割を担いました。
 「安倍川もち」の製造販売に奔走するなかで、いくつものエピソードが残っています。
 「やまだいち」の山田一を重ねたマークは、山田一郎の名前から。戦時中、衛生兵だった山田一郎が衣服にこのマークをつけていたところ、ある将校に「支給されたものに書くのはよくないが、地方に戻ったらこれはよいマークになる」といわれたことがありました。戦後、やまだいちの商品を見たかつての将校(大会社の重役になっていた)がこのマークを覚えていて「あの山田君ではないか?」と連絡をもらったことがありました。
 また「安倍川もち」の販売を始めてしばらく経ったころ、「安倍川もち」の元祖といわれる「亀屋」宮崎家のご当主から「後継者だと思って、がんばってくれたまえ」と声をかけていただいたそうです。
 昭和20年代の後半には、東京の三越で実演販売を行った際に、大変な人気で、食品課長自らが黄粉を手でまぶして「安倍川もち」を売ってくれたといいます。
 これらのことは、山田一郎にとって、大きな励みとなったといいます。戦後いち早く名物「安倍川もち」復興のために奔走し、生産技術の向上、販路の拡大に務めた人生でした。

〈 名物「安倍川もち」駅売りにて復活 〉

 昭和25年3月17日、「静岡名物安倍川もち」「静岡名物安倍川もち」の呼び声で駅売りされる風景が、NHKラジオで全国放送されました。戦後はじめて、静岡駅で「安倍川もち」が販売されたのです。一箱50円、小川龍彦氏による包装紙で包んで紐で結び、駅構内での立ち売りによる販売でした。購入した列車の乗客がお弁当のようにその場で開いて食べ始めるという光景も、当時見られたそうです。
 戦後、鷹匠町で喫茶店を営みながら、「安倍川もち」の復活を目指した山田一郎でしたが、実現までには数々の苦労がありました。当時はまだ統制経済の時代、菓子原材料の配給の申請をしてもなかなか許可がおりませんでした。そんな中でも全国各地で少しずつ名物復活の兆しが見られ、何としても静岡名物「安倍川もち」を復活させたいという気運が高まっていました。
 昭和24年には当時の静岡市長(増田茂氏)を会長に「安倍川もち保存振興会」を設立。当時の静岡新聞編集局長であった重田光晴氏や静岡県経済部長高見三郎氏の協力を得て、食糧庁との交渉にあたりました。営業用の食糧配給の許可はなかなか下りませんでしたが、昭和25年2月ようやく特別配給の許可が下り、「安倍川もち」の生産にこぎつけました。官民挙げての力添えを得て、昭和25年3月17日、駅という公共性のある場所での販売にこぎ出すことに成功しました。「安倍川もち」の復活は、まさに静岡の復興を象徴するできごとだったのです。

〈 皇族の方々に愛される味 〉

 やまだいちの「安倍川もち」は、天皇皇后両陛下はじめ、皇族の皆様にも幾度となくお買い上げいただいています。
 昭和32年4月12日には、昭和天皇・香淳皇后が、岐阜県に植樹祭のため行幸された帰途、静岡にご停車のうえ「安倍川もち」をお買い上げになりました。昭和28年、昭和31年に続き、3度目の静岡駅頭でのお買い上げでした。
 また、昭和34年にはご成婚直後の皇太子ご夫妻(今上天皇・皇后両陛下)にお買い上げ賜りました。
 昭和40年代に下田市の須崎御用邸が建設中の折には、視察に来られた香淳皇后が「安倍川もち」をご所望になり、下田までお届けしたというエピソードも残っています。
 平成3年の高校総体の際には皇太子殿下につきたての安倍川もちをご賞味いただきました。
 平成6年、今上天皇・皇后陛下、静岡県行幸の折には、姉妹品「野趣村情」をお買い上げ賜りました。
 この他にも、「安倍川もち」は多くの皇族の方々に好まれご賞味いただいています。

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