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小冊子「安倍川もちの由来」は、静岡市の郷土史家で、『可美古(かみこ)随筆 安倍川餅』の著者・故法月吐志樓氏が執筆し、昭和28年に当社〔(株)やまだいち〕が初版発行した『安倍川もちの由来』を原典として、最近発刊された資料『耳嚢』(根岸鎮衛著・長谷川強校注、岩波文庫)を参考に、補修改定版として発行いたしました。 名物に美味いものあり安倍川餅静岡の「安倍川餅」は、美味いことにおいて、東海道五十三次の駿府時代から名物番付の上位に据えられ、今日に至るまで静岡の代表的名物として名声を博してきました。 この「安倍川餅」の由来は、口碑によりますと、創業の時代は、四百年ほど前の慶長の昔にさかのぼるということです。 ●徳川家康命名の「安倍川餅」徳川家康が天下の権を手中にしたのち、駿府城に在って、幕府三百年の偉業の基礎を築いた時代に、家康は、井川(静岡市)の笹山金山や梅ヶ島(静岡市)の日影沢金山などを御用金山として、海野彌兵衛(うんのやへい)を奉行として盛んに金鑛の採掘を行いました。 なにしろ、場所が安倍川源流の山奥だから、何千人という坑夫を送り込んで働かせるのには、慰安の施設も必要なので、傾城小屋(けいせいごや)を建て、駿府二丁町(現静岡市駒形五丁目界隈)の遊女を出稼ぎさせるという騒ぎまでして、四斗樽へ三百杯という大量の金を掘り出していたのでした。 ある時、家康がこの金山を検分に出向いた際、ある男が餅をつ搗き、豆の粉をまぶして献上したのを食べたところ、大変美味かったので、献上した男を呼び寄せて、この餅の製法を尋ねました。するとこの男が、「この餅は、金山から産出し安倍川へ流れ下る金の粉をすく掬いあげて、餅にまぶしてつくるので『金粉餅(きんこもち)』と申します」と即座に答えました。家康はこの男の奇智を誉め、褒美を与え、改めて、この餅を『安倍川餅』と命名されたということです。 また、この「金粉餅」は、今川・武田の戦国の頃(約四百二十年前)から、梅ヶ島金山で「今年も金が多く産しますように」と神前に供えられて、豊富な産金を祈ったものだとも伝えられております。 ●「五郎右衛門餅」が「安倍川餅」の元祖天正十年(1582)に駿府(静岡市)に生まれ、仕官してさまざまな勲功をたて、役を辞したのち、便船に乗って唐(から)・天竺(てんじく)・阿蘭陀(おらんだ)をはじめ諸州を巡り歩いた渡邊幸庵という人物がいました。 幸庵は異境にあること四十余年、九十九歳の時に帰国し、町々をさまよい歩くこと十年、のち武江大塚に閑居して正徳元年(1711)百三十歳で没したと伝えられますが、幸庵が種々の記録を物語ったものを筆記した『渡邊幸庵対話記』には、安倍川向こうの丸子に伝わる「五郎右衛門餅」の話が乗っています。 五郎右衛門餅は、東新田(静岡市)という所の米で作った、なかなか風味のよい餅でした。のちに光友卿の内室となった尾張公の姫君は、この餅が大好評で、飛脚を使って江戸へ取り寄せて召し上がったほどで、用人もその手数や費用などで困り、五郎右衛門をはじめ臼取衆を江戸へ呼び寄せて、江戸の者に製法を見習わせたならば同じ風味の餅ができるであろうと、五郎右衛門の指図通りの道具万端を調え、米も東新田のものを使って搗かせ、姫君に差し上げたところ、いつもの餅とは味が違うとご機嫌斜めでした。 恐る恐る事の次第を申し上げると、先日到来の残りはないかとのことで、残り分を差し上げたところ、やはりこれでなければと快く食べられました。名物は、やはりその土地のものに限るものだと、五郎右衛門一行は丸子へ帰り、その後は姫君の生涯を通じて毎日のように餅を江戸へ運んだという由緒あるものです。 公家衆なども東海道を下る際には必ず五郎右衛門方へ立ち寄って餅を食べ、「鄙にも稀な」(田舎には珍しい)美味しい餅だと誉め称えたということです。この丸子の「五郎右衛門餅」というのは。恐らく「安倍川餅」のことであろうと考えられます。 徳川家康に「金粉餅」を献上したという話の主人公は、近世まで〔亀屋〕と呼んだ安倍川餅屋で、静岡市彌勒(みろく)の宮崎家の祖先で、同家は代々「五郎右衛門」を襲名したらしく、明治七年(1874)安倍川に独力で木橋「安水橋」を架け、明治の長者番付にものった宮崎總五とい篤志家も五郎右衛門と称びました。維新前までは、参勤交代の諸侯が、家康公の命名という事で、安倍川通過の際は必ず〔亀屋〕へ駕籠を寄せて「安倍川餅」を食べたりしたもので、そう断定しても間違いではないでしょう。 ●八代将軍徳川吉宗公も賞味された「阿部川餅」もう一つ「安倍川もちの由来」にかかわる資料があります。 江戸時代、根岸鎮衛という旗本が、天明から文化(1781〜1811頃)にかけて三十余年間に書き継いだ随筆集に『耳嚢(みみぶくろ)』(岩波文庫で復刻)という書籍があって、その巻の三に「阿部川餅の事」の一項目があります。
この文中の有徳院様とは紀州公時代の八代将軍徳川吉宗公であり、東海道を江戸への往還の折、神君・徳川家康公が「阿部川餅」の名付親であることをご承知で“阿部川餅は街道一の餅だ”と賞味されたと記されています。なお、この項では御賄頭(まかないかしら)・古郡孫太夫、駿河代官・文右衛門は餅米十表で餅を搗き献上したところ、殊のほかご賞味され、年々献上したところ、段々昇進して、古郡孫太夫は西丸御留守居役にまでなったとも記されています。 東海道に鉄道が開通するまでは、安倍川畔の街道には餅を売る茶店が軒を並べ、臼で搗く音も、襷をかけた若い女が餅を練る様も面白いので、茶店は大変繁昌しました。 ●さまざまな話題になった「安倍川餅」お馴染の、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも 「爰はなにあうあべ餅の名物にて、両側の茶店はいづれも綺麗に花やかなり。・・・」 と書かれていますが、彌次郎兵衛・喜多八のご両人は、前の晩に、二丁町遊郭で、祝儀の返しに重箱に入れた安倍川餅を貰って食べているので、彌勒茶屋で一流の滑稽もなく、従って安倍川餅の狂歌を残していないことは、残念です。 「安倍川で馬は黄粉をあびてゆき」 などと古い川柳にもあるように、安倍川餅は、本来は黄粉だけのものでしたが、のちには餡のものも作るようになりました。安倍川餅が特に評判が良くなったのは、徳川時代に珍重した白砂糖を使ったことで、伊勢参りの男が、値段を聞いてびくりしたのに、 「のろまめ、砂糖の高いのを知らねえか、白砂糖をつかう餅が、道中のどこにある」と、江戸っ子が罵った言葉が『役者見立五十三次』という評判記に載っています。 天明の頃(1780年代)に創製された駿河の砂糖の品質がよかったことから考察して、安倍川餅が白砂糖を使って一層名物の価値を高めたことは大変興味深い話です。安倍川畔で売られた餅は、一つの木盆に黄粉と餡の二種類を並べて盛った上へ砂糖をかけたものでした。 昔は、同じ安倍川名産であった安倍川紙子に因んで「かみこ餅」とも呼ばれて、五個で五文の「五文採(ごもんどり)餅」でしたが、あとでは一個五文で売られました。搗きたての純白な餅に砂糖と黄粉をふりかけて、その形も櫃形で相当大きなもののようでした。 明治維新の際、あの酒豪(一説には下戸ではないが酒好きではなかったという=注・やまだいち)の西郷隆盛が、東征の有栖川(ありすがわ)大総督宮を安倍川まで出迎えのため、茶店に休憩しながら安倍川餅を食べていた姿を見かけた古老が、当時の思い出話として語り伝えもしました。 昔、駿府の人たちが西へ旅立つ時には、親戚知人が彌勒まで見送り、亀屋とか葉婦屋などという茶店で別れの酒宴を催し、また、出迎えもしたもので、上戸党には、餅をわさび醤油で食べる楽しみもありました。 安倍川餅は、昔から文人墨客の紀行に書かれ、近世になってからは、諸画伯のスケッチとなって広く天下に紹介され、また、文壇の耆宿、泉鏡花の『雛祭』という幻妙な随筆にも描かれています。 今は、JR静岡駅で、伝統ある“東海道名物”として販売され、旅を楽しむ多くの人たちに親しまれています。 『安倍川餅』は、伝統ある名物が新しい時代の中に生きている姿といえるでしょう。その昔、東海道を往来した旅人を魅了したその味覚が、現代の『安倍川餅』の中に生かされて伝承されていることは、郷土人の限りない喜びでもあります。
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